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魏初には曹休、夏侯尚のように

魏晋では刺史となった(ただし、魏初には曹休、夏侯尚のように州牧位に就いた者もいる)。この時代には、刺史が将軍位を持って兵権の行使も行うことがほとんどとなり、「領兵刺史」と呼ばれた。しかし寒門の出の刺史には将軍位が与えられないこともあり、こちらは「単車刺史」と呼ばれた(将軍としての護衛がつかないので、出駕の際に僚車がおらず一輌だけで移動したのだろう)。領兵刺史と単車刺史には官品も差別があり、領兵刺史が四品官なのに対して単車刺史は五品である。魏晋以後、将軍位だけでなく持節・都督により軍権を付与された刺史が地方軍の指揮を行うことが常態となった。

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蜀漢、呉も刺史あるいは州牧を置き、諸葛亮、陸遜などの有力者が州牧を務めた(丞相などと兼務)。

南北朝時代では、南朝はおおむね魏晋の制度にならったが、北朝では都を管轄する州の刺史を「州牧」(北魏、北斉は司州牧、北周、隋は雍州牧を置いた。)とし、その他の州を上州、中州、下州とランク分けして刺史の官品に差別を設けた。この頃には行政区分としての州がどんどんと細分化されるようになり、北魏の天賜2年に各州に皇族1名臣籍2名の計3人の刺史を配置することになったころには、郡守とほとんど変わらない地位になっていた。

隋に入り、南北を統一した文帝は開皇3年(583年)にそれまでの州・郡・県の三段階の地方制度を州・県の二段階とし、増えすぎた行政単位を300州・1500県に整理した。更に刺史の軍権を都督府に吸収させて刺史はかつての郡守と変わらない立場になった。さらに大業年間初に州制を廃して郡とし、地方官としての刺史は消滅した。その代わり、司隷台という地方監察の部署を設け、14人の刺史が各地方を巡回し監察する制度を設けた。ここにおいて、刺史は純粋な地方巡察官という漢代の旧制に復したことになる。

唐代に入った武徳元年に郡を廃して州とし、刺史と雍州牧を置いた。しかし天宝元年に再び郡とした。粛宗の時代に再び州とした。

五代の戦乱時では刺史が兵力を握って自立することもあったが、北宋代に入ると代わって知州が州の長官となり、刺史は名称のみを残されて実態は消滅した。


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2009年04月29日 06:44に投稿されたエントリーのページです。

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